プロフィール

はじめに

こんにちは、makoです。このワードプレスのブログを開設してから約1ヶ月が経ちました。だいぶ遅れましたが、自己紹介をさせていただきたいと思います。

東京の中堅私立大学の理学部化学専攻を修了後、地方の中小企業に就職し、そこの会社とウマが会わずに五年で辞めて、その後は2回転職を繰り返しました。3社目の企業が業績不振になり肩たたきに合い希望退職に追い込まれました。

その後は契約社員、派遣社員として5社を渡り歩き今も5社目で派遣社員として勤務中です。正社員としてしか働いたことがない人にはわからない感覚と思いますが、とにかく非正規の社員は派遣先の会社の都合でぐに契約修了させられます。

このような非正規雇用の経験をして、雇われで働く限界を最近感じるようになってきて、ツイッターやブログなどで会社員を辞めてフリーランスになった人の経験談などを真剣に見るようになりました。

そこで初めてブログに広告貼ってアフィリエイトで稼ぐとか、資産運用(投資信託、ソーシャルレンディング)でお金を殖やすとか、noteなどの情報商材を販売して稼ぐとか、会社員ではない人の働き方を目の当たりにしました。社員辞めてフリーランスで生きる先任者のことを真似ていこうと決めて、ブログを始めたり、資産運用をやり始めたりして生き方を少しづつ変えようともがいている最中です。

いきなりインフルエンサーになって稼ぎまくるとかそんなことは全く考えていませんが、会社に100%依存する生き方を辞めても自分一人くらいは食っていけるようになることを真剣に模索しているところです。

では。ここから私の今までの経験を紹介していきたいと思います。

学生時代

小学校時代

内向的な性癖は抱えていましたが、基本的には社交的に振舞っていたと思います。周りの人を笑わせたりする目立ちたがり屋だったので周囲の人からは社交的と思われていたのかもしれません。

勉強はできる方でしたが、運動は全然ダメでしたね。

高学年になると学校が終わったら中学受験のための塾通いが始まったので、放課後に同級生と遊ぶことはなくなり、塾がないときも家で毎日勉強する日々が始まりました。塾では全然勉強ができる方ではなく、一生懸命勉強していた割には、どちらかというと落ちこぼれでしたね。

6年生になったら朝から晩まで勉強ヅケでしたが、なにせ塾での劣等生ですから、地元の名門中学を受験して当然不合格。

中学時代

家の近くの公立中学に進学。中学受験に失敗した悔しさからか、高校受験は失敗しないぞと誓って、部活動には入らずに学校が終わったら進学塾に通い勉強ばかりしていました。そのお陰もあり成績は学年でトップテンには入っていたと思います。好きな教科は数学、英語で嫌いな科目は国語。少し難しめの文章になると何回か読み直さないと理解できないんですよ。本当に難しくなると何回読んでも理解できませんでした。この頃から国語に苦手意識を持つようになりました。苦手なのは読むだけではなく、書くことも当然苦手で読書感想文の課題なんかは本当に憂鬱でしたね。

運動が苦手なのと内向的なのもあって部活動にはあまり興味を持てませんでした。勉強で忙しかったというのもありますが、勉強していなくても部活動には入っていなかったと思います。今思えば、この頃から集団生活に違和感を感じていたのでしょう。部活動に入っていなかったので、友達は全くいませんでした。塾には少し気の合う人はいたので彼らと話すことが息抜きになっていたように思います。

勉強ばかりしていたおかげか地元の進学校である公立高校に無事進学することができました。

高校時代

中学校と同じく、進学塾にも通い勉強ばかりしていましたが、流石に進学校。賢い人はたくさんいたので、私の成績は中位か良くても中の上くらいでしたかね。数学、英語、物理、化学は中の上でしたが、国語や社会科は下位に転落しました。現代国語でさえ難しいのに古文や漢文なんかは途中で全くついていけなくなりました。社会科も英語や理系科目の勉強が忙しくて手が回らず、途中から全くついていけなくなりました。

この頃から、自分の頭脳は大したことはないんだなと思い知らされることになります。一方、勉強ができる人は部活動をきちんとこなして、成績もいい人が沢山いるわけですよ。こちらは学校が終わったら進学塾に通って勉強していたにも関わらず、成績上位グループに食い込むことはできませんでした。

高校二年生まではクラスに気の合う仲間もいて休み時間にはおしゃべりする人はいましたが、三年生になると、私にも自我が出てきたのか、クラスの人と全く話さなくなりました。成績も全然良くならないし、自分の存在がなんか疑問に感じてきた時期ですね。クラスでは完全に孤立して浮いていたと思います。ただ、この頃は私のように自我が出てきた人がいて、私以外に孤立している人が数名いましたね。学校生活に馴染めなくて登校拒否になった人もいましたしね。

文化祭や体育祭とかの集団行動も意義を感じられなかったし、つまらなかったので途中で抜け出して映画を一人で見に行ったりしていましたね。

成績も良くなくて友人もできず、孤独でつまらない高校時代を過ごしたと思います。

大学受験は自分の成績を無視して、背伸びして、有名国立大学や名門私立大学を複数受験しましたが、全て不合格。浪人時代に突入します。

浪人時代

東京の御茶ノ水にある駿台予備校に入学して、本格的な浪人生活が始まりました。私は神奈川県の横浜に住んでいたので2時間弱かけて毎日通いましたよ。今思うとこれはなんの意味もありませんでしたね。横浜にも予備校は沢山ありましたが東京の方がいい先生が沢山いたので東京まで通いました。

1年間通いましたが、結論から言うと成績はほとんど上がりませんでした。物理や化学は駿台の講師の教え方がよかったので多少理解が深まって成績が上がりましたが、数学、英語は成績はほとんど変わらず、苦手な国語、社会も苦手なままでした。今思い返すと、浪人時代に苦手な国語、社会を捨てて私立大学に絞って勉強していればよかったんですけどね。私は国立大学に行きたかったので苦手な国語、社会も勉強せざるを得ませんでした。

予備校でも内向的な性格が災いして高校時代と同じく友人らしい友人はできませんでした。近くの机の人と休み時間に少し喋ることはありましたけどね。 ただ、孤独感とかは高校時代ほど感じませんでした。皆が浪人という同じ立場で大学進学を目指す同士でしたからね。高校時代よりはよっぽど予備校の方が居心地良くて快適でした。

現役時代と違い、自分のレベルにあった東京の中堅私立大学をいくつか受験して無事合格しました。ダメもとで名門私大や東京の国立大学を受験しましたが、そちらは当然不合格でした。

合格した私大の中で一番、偏差値の高い大学に進学しました。学部は理学部化学科です。

大学時代

大学一年から三年生

大学一年から三年生までは今振り返っても人生で一番楽しい時代でした。厳しい浪人時代を解放されたことも楽しさを倍増させたとは思いますが。内向的な私でしたが、授業に出ていると自然に数人の仲の良い人ができました。友達と呼べるほど深い中ではありませんが、授業の合間に喋ったり、学食で一緒に食べる仲間ですね。

他の学生が皆サークルに入っていたので私もプログラミングのサークルに冷やかしで入りました。プログラミングの勉強を真面目にやるサークルではなく、自由に毎週暇な人が部屋に集まって喋るだけのゆるいサークルです。1年間在籍して、サークルの旅行にも数回参加しました。それはそれで楽しかったのですが、やはり組織なので多少の窮屈さはあるし、特別仲の良い人もできなかったのでつまらなくなり結局一年でサークルは退会しました。どうやら私は組織に従属するのが苦手みたいです。

授業が終わったら同じ学部の仲の良い人とつるんで東京の様々なところに遊びに行ったり、時には一人で東京の街を一人でぶらぶらするのも好きでした。自動車免許を取った後は週末によく近場をドライブするようになりました。ここで車の運転の面白さにハマって、機会を見つけては一人で泊まりがけで日本のあらゆるところをドライブしましたねぇ。横浜に住んでいたのでほとんどは東日本です。信州や山梨、福島などには泊まりがけでよく行きました。夏休みには2週間の北海道旅行も敢行。仙台からフェリーで苫小牧まで行って、有名な観光地はだいたい回りました。車の運転がとにかく好きでしたので一人でも全然寂しくはなかったですね。

内向的なこともあり、ガールフレンドは全くできませんでした(笑)。一人でいることが好きだったので全く寂しくはなかったですけどね。大学時代は女性よりも車の方に興味がありましたね。

大学四年生からの研究室生活

大学四年生になると研究室に配属になります。自分の興味のある学問分野を研究している研究室に応募して教授の面接に合格すれば配属内定になります。人気の研究室は希望者が殺到するので成績優秀でないと入れないのですが私の希望した研究室はそれほど人気があるわけではなかったのですんなりと配属内定しました。

この研究室での生活は私は結構苦痛でしたね。研究室という組織に縛られるため、色々と窮屈なことが多かったです。最初は実験の進め方なども先輩に教わらなければならないし、同級生や教授ともうまくコミュニケーション取りながら人間関係を作っていかないといけません。私は同級生とも教授とも先輩ともあまりうまくコミュニケーションが取れなかったので研究室では浮いていたと思います。

私は大学院の修士課程に進みましたので研究室の生活は3年間に及びました。色々な行事もあるし(新人歓迎会、卒業生追い出しコンパ、学会発表など)、内向的な私は全ての行事が苦痛でした。学会発表などは自分の発表資料作成だけではなく教授の雑用なども色々処理しなければならないし大変でしたね。

また、私は研究室での研究成果も悪く同級生に遅れを取っていたので、教授にはあまり好かれていなかったと思います。とにかく居心地が悪い3年間でした

大学卒業直前にバブル経済が崩壊し、就職戦線は一気に氷河期に陥り、私のように中堅私大で優秀でもない学生には企業の反応は冷たかったですね。色々な会社を応募しましたが門前払いのような対応をする企業も多く大変でした。東大や京大しか会社説明会に参加させない企業もあったほどです。それくらい採用を絞り込んだんですね。

結局、首都圏では就職を決めることができず、九州の某中小企業で化学系エンジニアとして内定をもらい内定を受諾しました。はっきり言って全く行きたくない会社でしたが、ここしか採用されなかったから仕方なかったです。思うような企業に就職できずに博士課程に進学する同級生もいました。私は研究室での生活がまっぴらだったので成績優秀だったとしても博士課程進学は眼中にありませんでした。

社会人時代

 1社目(5年間の九州での生活)

九州(熊本県)での暮らしは最初の3年間は思いの外快適でした。地方の中小企業とはいえ、新卒の正社員にはちゃんとした長期間の導入研修もありましたし、先輩社員も色々親切になんでも教えてくれて可愛がってくれました。今思うと、私のような内向的な人間でも問題なく職場に溶け込めたので相当に懐の深い会社だったのでしょうね。プライベートでも色々と遊びに連れて行ってもらって楽しかったです。大学の研究室の3年間よりも全然快適でしたね。ただ、仕事は先輩社員のお手伝い的なことが多く、自分で主体的に進めていくような研究テーマはなかったのでそこは物足りなかったかな。給料は安くて一流企業に行った同級生には言えないような給料だったんですけどね。

楽しかった会社生活も4年目から一変しました。会社の経営が悪化してリストラを始めたんですね。入社した時から経営状態はあまりよくなかったのですが全社員に対するリストラ(希望退職制度)が始まりました。私も希望退職に応募してするか悩んだのですが、結局残ることにしました。この決断が大きな失敗でした。仲の良かった先輩社員がほとんどこの時に辞めてしまい、私はこのあと、厳しい上司のいる開発チームに異動になりました。もともと、コミュニケーション力がなくて仕事もできる訳でもなかったので、事あるごとに上司から叱責を受けることが多くなり、職場に居場所はなくなってきましたね。

転職活動を始めて数ヶ月で比較的待遇の良い転職先を見つけて5年ちょっとでこの会社を退社しました。

 2社目(一年半の短い在籍の静岡県の中小企業)

転職先は静岡県にある中小企業です。研究所に配属になったのですが、研修や勉強を兼ねて県外の工場への出張も多くかなりハードでしたね。仕事自体は正直あまり面白くありませんでした。私の専門である化学の知識や経験が役立つ専門性の高い業務は全くなく、ここで仕事しても成長はできないと感じてすぐにやる気を無くしてしまいました。

ただ、待遇は前職に比べるとかなり良かったので一年半もだらだらといましたけどもっと早く見切りをつけても良かったと思います。

新卒ではなく中途採用なので系統的な研修はありませんでしたが最低限の導入研修はありましたし、仲の良い気の合う先輩も数人できました。社員旅行も豪華な温泉旅館で費用は会社持ちでしたし、いい所も沢山あった会社でしたが肝心の仕事で成長できる環境がなければ致し方ありません。

転職先が見つからなければもっと長く在籍したかもしれませんが、転職活動中にたまたま業績の良かった大手企業に内定してその会社に決めました。その会社の勤務先が静岡県だったので引越しなども楽なのもその会社に決めた理由の一つです。

 3社目(12年間在籍した一部上場企業)

研究所時代(嫌なことも色々あったが思い出も多い9年間)

大手企業だったので全国に営業所や支店がありましたが開発部門や研究部門は静岡県や神奈川県にありました。私は静岡県東部にある研究所に勤務することになりました。大手と言う割には研修はほとんどなくて、いきなり研究テーマを任されることになりました。研究テーマを与えてその中で仕事を覚えさせる教育スタンスだったようです。

仕事内容は私が期待していた通り、専門性が高く仕事を通して成長できる環境として申し分ないものでした。と言うより私には不相応な職場だったと思います。専門性が高すぎて私の頭脳では手に余ることが多かったですね。周りは旧帝大の大学院を終了した秀才ばかりで、仕事の内容を理解するのが大変でした。最初の1年間は面倒見の良い上長に恵まれて比較的居心地が良かったのですが二年目からの3年間は厳しい上司で事あるごとに叱責を受けることが多くなりました。正直、何度も辞めようと思いましたし、転職活動もしたのですが、なかなか内定を得ることができませんでした。人並みの給料を貰っていて、仕事内容も比較的面白かったから続けることができたのでしょう。給料が人並み以下だったら多分辞めていたと思います。

この厳しい上司の下での商品化研究が目処がついたので、組織の再構築が理、幸運にも異動でこの厳しい上司から離れることができました。

異動先は同じ研究所内だったので転勤とかは必要なく大それたものではありませんでした。この異動先には5年間在籍しましたが特に化学の専門性が高い業務を任されたので技術者として一番成長できた時期ですね。

私は頭の回転も悪いし仕事ができない部類の技術者だったのでこの研究所にいる間、一度も昇進できませんでした。私より若い人や同世代の仕事ができる人はどんどん昇進していきます。どこの会社もそうだと思いますが、仕事ができない人間には重要な仕事は回ってきません。私の業務も専門性が高く面白い仕事ではありましたが、重要な研究開発テーマではなかったので居場所がだんだん無くなってきました。

なんとなくですが、この会社に長く在籍することはできないだろうなとは薄々感じ始めていた頃です。会社が業績不振に陥りリストラ(希望退職者募集)を始めました。従業員全員に対する面談が始まり、私に対しては案の定、君に今の職場で居場所はないと言われ、希望退職するように示唆されました。私はこの時すでに40才になっていて年齢的に再就職が難しいから退職するつもりはないと希望退職を固辞してしまったんですね。

この判断は私の職業人生で1番の失敗だったと今でも思います。希望退職を固辞した私には半年後に報復人事が待っていました。全く別の事業部の営業部員としての異動命令が出たのです。異動命令が出てから2週間後に東京本社への出社命令です。東京への転勤になったので引越しの手配とか短期間で色々やらないといけないので大変でした。

研究所での9年間は嫌なことも沢山あったけど、専門性の高い業務を通じて技術者として成長できたし、仕事を通じて色々な仲間もできました。

営業員時代(苦痛なだけの3年間)

東京に転勤になり、営業部員として集められた人たちとの顔合わせがありました。医薬品の事業部の医薬情報担当者(MR)にならなければならないことをここで初めて知るわけです。自己紹介を聞いていると大半の人が私のように希望退職を勧められたにも関らず固辞した人たちでした。半年間はMRになるための資格取得の座学中心の勉強があり、その後は全国各地の営業所に配属になりました。MRは国家資格なので資格取得が必須なのです。資格がなければ医薬品の営業ができないことが法律で決まっています。

私は東北地方の一部を担当することになったので、仙台市に赴任して営業活動することになりました。とは言ってもこちらは営業のど素人。営業のことなんて右も左もわからない人間です。東北エリアの営業マネージャーに同行して数ヶ月間は営業のイロハを教えてもらいました。その後は一人で営業先(薬局、クリニック、医薬卸)を回ることになります。

全くダメな営業部員でしたね。営業エリアでも売り上げを全然あげられないお荷物社員だったと思います。とにかく、薬局やクリニックを回るのが嫌でしょうがなかった。医師や薬剤師は忙しいので私のような冴えない営業部員の相手をしている暇は基本的にないわけです。邪険に扱われることも多くて結構なストレスになりました。

結局、一年後に東京本社に欠員が出たのでその穴埋め要員として私のようなお荷物社員は異動になりました。東京本社では営業企画部に配属になり、仕事はMRのサポートです。全国のMRに必要な営業資材を送付、全国の営業所の成績を定期的に送付、毎月ある営業会議の運営などが仕事です。ここでの上司が厳しい上司で性格で本当に苦痛でした。短気だし、ちょっとしたミスでもすぐにキレる人だったので私が経験した上司の中でも一位、二位を争うレベルの厳しさだったと思います。その上司の下で一年ほど働いた後は、また東京本社内で異動がありました。異動先の上司は前の上司ほど酷くはなかったけど、それでも厳しくて短気だったので皆ピリピリしていましたね。

私は営業データの整理とか単純作業ばかりだったので仕事は正直つまらなかったです。この部署に一年ほど勤務したあと、また会社の業績不振によるリストラ(希望退職者募集)が始まりました。管理職との面談が始まり、私は予想通り退職を勧められました。この時は即答で希望退職を希望すると答えて幾分かの割増退職金をもらって12年間勤務した会社を退職することになりました。

半年の失業時代

 

会社を退職し住んでいた都内の独身寮を退去して杉並区高円寺に賃貸アパートを借りて住み始めました。会社の希望退職オプションとし2年間使える再就職支援制度があったのでパソナキャリアの新宿支店に登録して毎日通いました。ハローワークのようにPCが沢山設置されていたので転職サイトで転職先をリサーチしたり、毎月のキャリアコンサルタントとの面談、模擬面接、不定期の各種セミナーなどをフルに活用しましたね。朝から夕方まで居ることができたので大変助かりました。

雰囲気は大学受験の予備校のような感じで、皆が再就職を目指す同士なので失業者にも関らず孤立感はほとんど感じませんでした。

失業給付を毎月受け取るために新宿のハローワークにも通いました。会社都合で退職できたので退職直後から給付を受けられて助かりましたね。

悪いことは重なるもので、失業のタイミングと同時に母が末期の胃癌にかかっていることが分かり随分落ち込みました。手術や化学療法でも完治は難しいと担当医師から聞いてもう母の先は長くないなと悟りました。母も自分の先が長くないことは気が付いていたようです。

その矢先に私は家の中で転んで手首を複雑骨折してしまい、整形外科に行ったら、手術しないと治らないと言われました。失業に、母の病気に私の骨折と、まさに泣き面にハチ状態でした。骨折の治療には3ヵ月を要して、その間は利き腕の右腕が使えなかったので本当に大変でした。

転職活動は、色々な転職エージェントに登録して、20名くらいのキャリアコンサルタントに会って、様々な会社を紹介されて沢山応募しましたが、やはり44才という年齢がアダとなりほとんどが門前払いで面接にこぎつけれる会社はわずかでした。面接にこぎつけても最終面接までいく案件はありませんでしたね。

私が失業中の間も母の容体は日に日に悪くなっていき、私が失業中に亡くなってしまいました。

私が希望する会社で正社員で採用してくれるところはなく、結局、契約社員で採用してくれた企業に入社することにしました。全然、行きたい会社ではなかったけど、半年に及ぶ長い失業生活に疲れていましたしね。正社員になれる可能性もある企業だったので入社を決めました。これが大間違いの選択だったのは入社してから分かりました。

非正規雇用生活の始まり

 半年間の契約社員生活

この会社は私にとってはブラック企業そのものでした。理由は

・導入研修がいい加減。研修期間の3ヶ月間ほったらかし。

・マネージャーが部下(私)の指導育成を放棄。マネージャーは出張ばかりして私のことは毎日ほったらかし。私は出社してもすることがなくPCでネットサーフィンしていました。

・強要の飲み会の頻度が高く、場合によっては連日飲み会の日も多かった

などです。これだけでも全然ブラックでしょ?入社前にこの会社のことは散々調べたのですが、調べた限りは優良企業と思いました。業績も悪くなかったし事業も将来性がありそうだし。ただ、やっぱり企業は入社してみないと分かりません。会社全体で平均したらホワイト企業でも、ブラックな部署というのはおそらくどこの会社にもあると思うんです。私は運悪くブラックな部署に配属されてしまったんですね。

半年間在籍しましたが、こんな企業に長くいても意味がないと思い躊躇なく退職しました。待遇(給料)は悪くありませんでしたがとてもじゃないけど長く働けるような環境ではありませんでした。

ただ、自己都合退職なので失業給付がしばらくは出ませんから次の職をすぐに見つける必要がありました。

 2度目の失業生活(2ヶ月)

もう正社員も目指すのは無理と感じていたので、派遣会社に片っ端から登録して気になる案件はすぐに応募しました。ただ、なかなか面接(職場見学)にたどり着けません。やはり、派遣社員も企業からすると若い方が使いやすいでしょうから私のような中年になると大変なんですね。東京近郊ではなかなか決まらないので関西方面までエリアを広げて探すと職場見学に呼んでくれた企業(大阪、滋賀)が2社有ったので早速職場見学に行くと大阪の一社からは内定を頂くことができました。それと同時期に東京の企業からも職場見学の話をいただき、面接したら即内定しました。どちらにするか悩みましたが、大阪の会社の方が時給がよかったので大阪の会社に決めました。東京から引っ越さなければならなかったので大変でしたけどね。会社からはすぐに来て欲しいと言われたので1ヶ月近くは大阪のホテルから通いながら、土地勘のない大阪で部屋探しをして勤務先近くのアパートに部屋を借りました。東京よりも家賃相場がだいぶ安いのが助かりましたね。

 初めての派遣就業(7ヶ月間)

会社の近くにアパートを借りたので通勤は楽チンでしたね。ドアーツードアーで職場まで30分かかりませんでした。職場の指揮命令者も同僚も変な人はいなくて快適だったのですが、指揮命令者は、私に単純実験作業だけでなく、開発にもある程度は携わって欲しかったようなんです。でも定時時間内では単純作業だけで手一杯で開発まで携るとなると毎日残業しなければなりません。指揮命令者は定時時間内で単純作業と開発業務をやりくりして欲しかったようなんですね。でも、私にはそんなことは無理ゲーでした。

私の働きぶりが派遣先の要求に答えられなかったこともあって7ヵ月でクビ(契約終了)になりました。

 3度目の失業生活(3ヶ月)

派遣就業を経験して、派遣の惨めさを味わったので、できれば契約社員とか正社員がいいと感じて正社員応募もトライしていくつかの会社と面接しましたが、どこもなんとなくブラック的な企業なんですね。車内の雰囲気もいまひとつだし人手不足だから私のような経歴がパッとしない中年も面接に呼んだのではないか勘ぐってしまいます。私から辞退したわけではなく、どこの企業も最終面接までたどり着けなかったですけどね。

派遣就業の応募も厳しくて、色々応募しても職場見学(面接)にすら呼ばれません。年齢のハンディや前職で7ヵ月でクビになったことも不利に働いたのでしょう。やはり、会社員でやっていくのだったら、派遣でも正社員でも極力長く働くべきですね。

この頃、長い失業生活のストレスからか不眠症にかかってしまい、心療内科に通院して治療しなくてはならなくなりました。睡眠薬や生活習慣の改善で直そうとしましたがなかなか改善しませんでした。通院してもよくならなかったので結局通院自体を止めてしまいました。3ヵ月後に次の派遣就業先が決まったのですがその頃には自然と不眠症も治っていましたね。

次の派遣就業で決まった先は大学の研究室です。自分より大幅に若い学生ばかりの中で溶け込めるか不安でしたがそんな贅沢なことを言っていられなかったのですぐに就業を決めました。

 2社目の派遣就業(8ヶ月)

大学の研究室の就業は就業開始時にトラブルがありました。ここの研究室の受け入れ態勢が非常に杜撰で就業から2週間経っても個人デスクや専用のPCが支給されないので流石に頭にきて、派遣会社の営業担当に、私を本気で受け入れる気がない職場だから就業を辞退すると強い口調で伝えました。

その派遣会社の営業担当は営業所長と共に派遣先を訪ねて私に対する受け入れ体制を整えて欲しいと強く訴えてくれました。翌日からは個人机も配備されPCは少し遅れて1週間後に個人PCが設置されました。派遣先で何か理不尽な扱いを受けたら派遣会社に毅然として抗議しなければいけないと思います。派遣先でのトラブル解消も立派な派遣会社の仕事なので黙っていたら派遣会社に搾取されるだけです。我々派遣社員は奴隷ではないのですから黙っていないできちんと伝えましょう。

ここの大学の研究室は先生や生徒にはそれほど変な人はいませんでした。ただ、派遣社員は結構いてほとんどが若い女性だったので私みたいな中年のおっさんは私だけでしたので完全に浮いていましたね。

仕事は研究室の先生の指示のもと実験作業とか機器分析でした。仕事そのものは結構面白かったですね。実験作業や機器分析も最新の設備に触れられて楽しかったです。大学院の博士課程の学生が親切で色々と教えてくれたのも助かりました。

この職場はクビではなく、もともと最初から8ヶ月の期間限定だったんです。期間終了間際に転職エージェントから連絡があり紹介したい会社があると言われたので勧められるがままに応募したら面接の案内がきたんですけど、最初の面接を突破できず不合格でした。他にも派遣や正社員の案件にも応募したんですけどどこもダメでしたね。またもや失業期間の始まりです。

 4度目の失業生活(1ヶ月半)

色々な派遣会社に登録して応募しまくっていたのですが、やっと一件だけ職場見学の案内が来ました。ただ、かなり田舎(滋賀県)で大阪からはだいぶ離れています。私の自宅(大阪摂津市)からは電車乗り継いで二時間くらいかかりますし、定期代も毎月4万円近くかかります。職場見学に行くか悩みましたが面接を受けたら向こうが私のことを気に入ってくれて採用になりました。ただし、受け入れ態勢を整えるのに1ヶ月ほどかかるので私はまた失業生活です。ハローワークで失業給付を受けたり、図書館で専門知識(化学)の勉強をしたりして日々過ごしていました。

 3社目の派遣就業(半年間)

滋賀県の職場までは本当に遠かったですね。私の住んでいる大阪摂津市からだと大阪モノレール→阪急京都線→JR線と3つの路線を乗り継いでいかなければなりませんでした。朝の8時から始まる職場だったので毎日5時半に起きてましたね。残業も毎日一時間以上ありましたので結構ハードでした。指揮命令者は親切な人でよかったのですが、現場は年配の女性が仕切っている職場でやたら忙しく雰囲気はあまりよくありませんでした。最後まで溶け込むことができませんでしたね。

ここも仕事自体は面白かったのが救いでした。ただ、私が職場に溶け込んでいないことを指揮命令者に気がつかれたようで半年でクビになってしまいました。

また、仕事帰りが夕食時になるので途中の乗り換え駅(JR高槻駅や阪急高槻市駅)の安い居酒屋で毎日食事しながら一杯やっていくのが楽しみでした。特にJR高槻駅近くの立ち飲み屋にはよく通いましたね。店主に顔を覚えられるくらいに(笑)。

幸い次の派遣先は在職中に決まって失業期間がなくて済みました。

 4社目の派遣就業(二年以上就業中)

この派遣先も前職と同じで職場が遠いです(神戸市)。私の家(大阪府摂津市)からは大阪モノレール→地下鉄谷町線→JR線と乗り継ぎ一時間半以上かかります。定期代も3万5千円くらいかかります。半年以上通いましたが、体力的にも金銭的にもしんどくなってきたので職場の近くに引越しを決断しました。とは言え、この職場にずっといられる保証は何もありませんから引っ越す場所も熟慮しなければいけません。神戸よりも西になるとだいぶ家賃も安くなるのですが阪神間だと交通の便の良い場所はどこも高いです。ただ、今の職場の後のことまで考えると大阪に通勤できるエリアにしておくのが無難と考えて西宮や尼崎を中心に真剣に部屋を探し始めました。

ただ、派遣社員で低収入であることや保証人がいない(親は年金暮らしで保証人になれない)ことが響き、いいなと思う部屋があっても入居を断られることがほとんどで途方にくれていました。そんな中、西宮市の不動産屋でURのことを聞きました。敷金礼金がないことや保証人が不要なことなど有利な条件が揃っているのでURを真剣に探し始めたところ気に入った部屋を見つけたのでそこに決めました。ただ、URは民間に比べて古い物件が多く設備が見劣りしますし(風呂屋トイレの設備が古い)その割に家賃が高いのが欠点です。逆に長所は鉄筋コンクリート作りが多いことや立地がいいところですね。

私が決めたURも駅近で日当たりがよくて快適なのですが家賃は前の住居(大阪摂津市)よりも大きく跳ね上がりましたし、築20年立っているので至るとことに設備の古臭さを感じます。まあ、保証人を立てられない派遣社員ということであまり贅沢は言えないんですけどね。

引越し先からは勤務先まで阪急線一本で行けるようになったので通勤時間も一時間弱まで短縮され体力的にも楽になり、定期代も大幅に安くなり助かりました。家賃は高くなりましたが交通費負担を考慮すると全然許容範囲です。いくら家賃が安くても近くに勤務できる職場がなければ何にもなりません。

仕事は今までの実験業務とは異なり、文献調査業務です。研究者や技術者に必要な文献調査を毎日行い、調査結果を定期的に彼らにフィードバックする仕事です。完全に裏方の仕事ですが、この2年間、大きな人間関係のトラブルはないのでまあそこそこ満足はしています。

この職場も今年の終わりには3年を迎えるので新たな職場をそろそろ探さなければなりません。契約社員でもアルバイトでもブロガーのようなフリーランスでもいいですが、正直、派遣社員はもうやりたくありません(笑)。頑張っても昇給もないし、賞与もないし、交通費も住宅手当もない、正社員のような導入研修もないなど、ないない尽くしなのが派遣社員。

やはり、会社員でやっていくなら頑張って正社員になれるように努力した方がいいと思います。もしくはブロガーのようなフリーランスですね。

だいぶ長くなりましたが、私のプロフィールは以上です。

 

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